喜怒哀楽と、善と悪

喜びが好き
笑うことや楽しいこと、
あったかい空気や安らぎが好き

怒るや哀しいは嫌い
さみしいも嫌い


私はそれが強すぎて、
好きだから良いこと〈善〉
嫌いだから悪いこと〈罪や悪〉

にしていたことに気がついた。


笑顔は好きだけど、それが善というわけではないし、
ネガティブに感じる感情は嫌いだけど、それは罪でも悪でもないんだ。
そこはイコールではないんだ。


だから、子どもたちがグズったり泣きわめいたりすることが必要以上に怖かったんだ。

どうにかして対処しなきゃ!という自分への脅迫感
手に負えないときの無力感

とくに0歳の次男はまだ話せないから、理由がわからずにグズり続けているとわかってあげたいって思うし、わからなくてごめんねー!なんて思うけど、そこに罪や悪は起きてないんだ。

そう思ったら、彼らが機嫌を損ねないか心配や不安に思うことはないし、
彼らが笑っていないときもそれでいい。

そりゃいい気分はしないけど、おそれなくていい。



それと同じように。

私もイライラしたり、怒ったり、文句を言っていい。

親だからとか、オトナだからとか、
社会的にとか、みんながどうとか、

他の何かを優先して、私の意見や気持ちに
フタをしなくていい。

フタをしたら、どんどん自分がひねくれていっちゃう。

自分と違うことしてたら、
ひねくれて、よじれて、自分が見えなくなっちゃう。
私は私にわかってもらいたいから、
少なくてもその想いにハッキリ気がついていたい。
たとえネガティブな想いでも、想いを作った自分に罪悪感はいらなくて、ただそれをハッキリとわかってあげるんだ。

シンプルに。ハッキリと。



私が守ろうとしていた調和は、上っ面な調和だったことにようやく気がついた。


調和。
ネガティブな本音もマルッと許して認めた先にあるもの。


そうやって、どんどん自分を知っていこう。


そこから展開していく、
人との調和。
自分との調和。


未知だけど、新しい一歩を。